平成18年度
ふるさと神話セミナー
平成18年7月18日
第3回目 資料
天孫降臨後の瓊々杵(ニニギ)尊伝説
愛宕山と日向朝廷三代について
ニニギの尊 ( 日向初代様 )
瓊々杵尊〔ニニギノミコト〕
山幸彦 ( 日向二代様 )
火遠理命〔ホオリノミコト〕
鵜葺屋葺不合命( 日向三代様 )
鵜葺屋葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)
笠沙の会 7人会編集
天孫降臨後の瓊々杵(ニニギ)尊伝説
笠沙の会 有留秀雄
愛宕山は延岡の中央部を形成し、この地で暮らす者は、朝な夕なに遠くに又近くに望み見上げる景色である。遠くに離れて
暮らす者にと
っては、城山の鐘の音と共に思い浮かべる、望郷の山影である。延岡の地では、紀元前約三万年頃より人が住んだとされて
います。証としては愛宕山下の洞窟貝塚や小野町の横谷貝塚があり、旧石器時代の遺跡が小川町、細見町、吉野町、片田
町発見され、又縄文時代の草創期の遺跡がさらに大貫町、天下町、小峰町に発見されています。
紀元前六千五百年から紀元前四千年にかけて地球は、温暖化の時期で海面は現在に比し、10m程高い状態でありました
「縄文時代の遺構、貝塚の位置が海抜10mに集中している」事で容易に推察できます。その頃、愛宕山は海に突出した半島
で文字も無い時代ですから、おそらく名前さえも無い、それから数千年の時が過ぎやがて稲作が始まります。温帯ジャポニカ
種と言われている陸稲です。従来の考古学は、稲作=水田稲作という図式を想定していたので、遺跡から水田跡が発見され
ないので、縄文時代に稲作があったという事を認めなかった。でも初期の稲作は、焼き畑、或いは直播きによる稲作と考えら
れるようになり、水田はなくてもよい説が一般的になり、今は縄文時代の晩期には、この地でも稲作が始まっていたとも考えら
れます。
◎稲作と瓊々杵尊 むかしむかし天孫ニニギの尊が高千穂に天降りました、年代は不詳です。個人的には稲作に関連した神話ではと
考えます。無茶な言い方をしますと紀元前二千四百年前の頃、陸路つまり中国、韓国を通り伝播された稲、温帯
ジャポニカ種(陸稲)は、弥生時代以前から北部九州筑後平野で作られていた。稲作が次第に普及するにつれて
「米と言う食料を守る」「または奪う」戦いが発生し、稲という食料を守るために、組織化された、国と首長が現
れます。紀元前300年から紀元300年の古墳吉野ヶ里がその事を明確に伝えています。
その後、この米を作る技法を知る大きな部族が魏志倭人伝に邪馬台国と記載されています。この年代に女王卑弥呼は
韓国と三回に渡る戦争をしていた。その調停役の軍事顧問が残した文章が魏志倭人伝とされています。邪馬台国には
七万人ほどの人が住んでいたとあります。
この民族の一部が新たな稲作を行う場所を捜し求めて、南下すると、甘木、朝倉、日田、杖立、小国方面になります。
そこには阿蘇外輪を迂回する古道があったとされています、もちろん到着点は高千穂になります。未開の山に登る者は、
尾根伝いに移動するのが普通で、新たな支配地や土地を見つける場合、山頂から見渡す方法取られ、その事から山に
降臨するとなったと考えます。又、古墳文化のルートが高千穂周辺から、延岡周辺、都濃・川南そして西都と続き終点は
都城平野の東端に至っている事からも、このルートは古代の主要な古道であった可能性が高い、神話街道は古墳街道
で重なっていたと考えられます。
◎高千穂と天孫降臨
天孫降臨には、二つの高千穂説ありますが、詳しい論拠は次の機会にしますが、「日向国風土記」には次のように書か
れており、稲の伝来が根底にあることを物語っております。
「臼杵の郡(コホリ)の内、智鋪の里。天津日高日子番能邇邇芸命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)、天の磐座(イワクラ)
を離れ、天の八重雲を排(オシワケ)けて威稜(イツ)の道別(チワ)き道別(チワ)きて、日向の高千穂の二上山の峰に天降
りましき。時に天暗冥(ソラクラ)く、夜昼別かず、人物道を失い、物の色別き難たかりき。ここに土蜘蛛、名を大窪(オオクボ)
・小窪(コクボ)と曰ふもの二人ありて、奏言(マオ)ししく「皇孫(スメミマ)の尊、尊(ウズ)の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と
為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴(アカ)りなむ」とまをしき。時に大鉏(オオクボ)等の奏(マオ)ししが如、千穂の
稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り、光きき、因りて高千穂の二上の峰と曰(い)
ひき。後の人、改めて智鋪と號(ナズ)く。」
現代名の高千穂の千穂が稲穂の千穂にちなんだ名前であり、又天孫瓊々杵尊も番能邇邇藝命(ほのににぎ)
とも呼ばれます。稲穂がにぎやかに揺れるさまを名に例えたとも言われる所以です。さて、高千穂に稲を巻いた
天孫瓊々杵尊は、その後どこへ行ったのでしょう。 古事記(712年完成)によると、「笠沙之御前ニ眞來通リ朝日之直刺國夕日之日照国ナリト詔シ宮柱建テ給フト」
日本書紀(720年完成)には「膂宍(ソシシ)の空国(ムナクニ)を頓丘(ヒタヲ)から國覚(クニマ)き行去
(トオ)りて、吾田の長屋の笠沙の碕に至ります。」 ◎笠沙の碕の事笠沙の碕は「鹿児島県野間半島の笠沙町では」という説もありますが、当時の鹿児島は熊襲の国であり、異文化 の地で、後に熊襲征伐の話があるほど敵対関係強い地域です。また高千穂に降臨した後に、鹿児島県の笠沙町に行 くには、SFでは無いが円盤を使用しなければならなくなります。又、笠沙町の瓊々杵尊は、韓国より来てこの地で 上陸しています、つまり降臨した瓊々杵尊ではないのです。一説にある稲を伝来させた者を番能邇邇藝命(ほのににぎ) と呼び、瓊々杵尊のとしたならば、瓊々杵は数名居たと考えられる、ニニギ伝説になるのですが。天孫降臨した 瓊々杵尊では無いと考えるべきです。
吾田の長屋の笠沙の碕としている点で、延岡の現在名愛宕山が有力な笠沙の碕とされるのです。論拠は、延岡は 吾田(アガタ)と呼ばれ欽明天皇時代(569年)頃は宇佐八幡宮の神田であり、直亥宿弥(なおいのすくね)の子孫、 土持氏が吾田に封ぜられたとの記録があります。慶長8年(1603年)県(アガタ)城の築城を終わり、高橋元種は 松尾城から、県(あがた)城に移ったと記録から、少なくとも延岡は1600年代までは吾田と呼ばれていた事になり ます。以上の史実から吾田の長屋は延岡の事で、愛宕山は旧名で笠沙山と呼ばれていた事実から、笠沙の碕は愛宕 山の東端がそこに当たるものと伝えられています。
◎極天さんの事
むかし、むかしの事です、極天さん(ごってんさん)に日向御前(有馬直純の妻、徳川家康の孫)が登りました。 女人禁制の山であったにも拘らず、男女は元同権であるとして、西暦1614年に一家郎党を引き連れて登り参拝した。 それよりもまだ、むかし、むかしのお話です。
天照大神の孫である。ニニギの尊(日向初代様)は笠沙山に住んでおりました。毎朝高天原に住む、天照大神や父親天之
忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)への祈りは欠かさずに日課にしておりました。そして稲の作付けの日や取入れの時期を決
める、暦の祈りは山頂で行いました。その山の頂を天に一番近いところ、つまり天の際、天の一部としての天の極と申されて、
海山の産物を捧げ、この聖なる地で祈りました。今では極天さんと呼ばれ親しまれています。また愛宕神社の上には、遥拝所と
呼ばれる天を望み拝する場所があったと言われます。尚愛宕神社は1601年(慶長6年)に恒富村の現地に移したとあります。
極天さんが建立又は勧請した謂れは、郷土史年表には見当たらない。今は愛宕神社の奥の院とされている。
◎笠沙の宮・出会いの聖地・誓約・火の産屋の事
この地の伝承の地の意味するものは、大和朝廷の基となる日向朝廷(日向三代)の初代ニニギ尊の宮、笠沙の宮が あったとされる場所です。古事記や日本書紀によると、海幸彦、山幸彦のご両親が初めて出会った場所が笠沙の碕と されます。日本最初の出会いがあった場所であり、デートコースと呼ぶべき所です。一目ぼれされました瓊々杵尊は コノハナサクヤ姫に結婚を申し込みます、姫は父親の大山積の神にお話をと、大山積の神は天照大神の孫にあたる神 と知り、姉の石長姫とお二人を嫁がせますが、石長姫は、お顔が醜いのでお帰しになられたとの話があります。また 結婚初夜で妊娠した木花之咲夜姫をニニギの尊は疑われました、疑いを晴らす為、木花之咲夜姫は、誓約(うけい、 神との約束)をして、火の産屋で三皇子を産みます、火照命・火須勢理命・火遠理命(ホデリ・ホスセリ・ホオリ) です。
◎古墳とご陵墓の事
紀元前千七百年頃、地域の覇者である首長やその家族を埋葬する為の古墳が作られるようになります。これが古墳時代の
始まりです。
延岡には、西都市の男狭穂塚、女狭穂塚より100年以上前の堅山古墳群があります。天孫降臨伝説の瓊々杵尊は高千穂より
延岡の愛宕山(旧名笠沙山)笠沙の碕に住み、稲作を伝承したと推測されます。そしてこの地域の人と共に暮らし、「日本書紀」
に記載、神代下巻に「天津日高日子番能邇邇芸命アマツヒコヒコホノニニギノミコト」崩「アムアガリ」りましぬ。因りて筑紫日向可
愛山陵に葬りまつる」つまり東臼杵郡北川町俵野の可愛岳山稜ご陵墓に祭られたとあります。
当時道は無く、海路も生死をかけねばならぬ、旅であったと思われます。その時代に北部九州より高千穂そして延岡と考える
方が地理的にも自然であり、又降臨の地(山名)二上山、祖母山があり、延岡が吾田と呼ばれて、又御崎の名が笠沙山と呼ば
れている点からもこの地の伝承と考える方が自然です。ではなぜ、西都市の男狭穂塚、女狭穂塚や鹿児島川内市の可愛山陵が
瓊々杵尊のご陵墓として、存在するのかと言う疑問が出てまいります。
◎海幸彦と山幸彦(日向二代様)の事
稲作が盛んになると、栄養の状態が良くなり人口も増してまいります。そこで新たなに稲作を行える地を探し、瓊々杵尊の子
孫や縁者の人々は、日向路を南下しました、一部は西都に留まり、又一部は再南下をし、日南に到ったのでは思われます。
山幸彦と海幸彦の物語はこの頃のお話で山幸彦が豊玉姫と結婚し、鵜葺屋葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)が生まれる
お話です。
瓊々杵尊は皇尊の神と慕っており、当時吾田の庄を発した人々は、新天地に新たに瓊々杵尊のご陵墓を造りお祭りをしました。
その御陵墓が現在に各地に残っているのではと考えます。瓊々杵尊の御陵と言われるものは宮崎県に6箇所もあり鹿児島県にも
2箇所あります。すべて瓊々杵尊をお祭りしたご陵墓には間違いは無いでしょう。
◎神武天皇の父の鵜葺屋葺不合命(日向三代様)の事
又再南下した子孫により、鵜葺屋葺不合命(日向朝廷の三代さま、神武天皇の父)をお祭りした宇土神宮があり、神武天皇は
東征の為日向市美々津よりお船出をした史実から、ニニギの尊のご陵墓は北川町の可愛岳山稜ご陵墓と考えて間違いは無いと
思う。又神武天皇の妻である阿比良姫(アヒラツヒメ)は吾田庄から嫁いだとされています。
西の高千穂との間には、ニギハヤヒノミコト(もう一つの天孫降臨の地)とされる、速日の峰があります。愛宕山東端は別小山に
なっており、西に大山「極天さん」がありを離れてみますと、大きな前方後円墳に見えるのは私だけでしょうか、延岡の地が日本の
象徴である天皇家の祖先、日向朝廷の三人皇尊の神かおわしたとする、大いなる地であることお伝えとして、起稿しました。
愛宕山の東端には、紀元2600年、延岡聖跡顕彰会建立の笠沙の御碕の碑が静かに立ち、遠く日向灘を望み、日出ずる 国の発祥との不思議な縁が佇まいとして其処に慄然とある。