日本書紀・古事記・日向風土記より起稿した
延岡にまつわる歴史の物語
吾 田〔延岡古称〕神 話
編集 笠沙の会 有留秀雄
吾田〔あがた〕神話
このお話は、三つの食べ物と三つの人種の和合のお話です、このお話はやがて日本の国の草創期に繋がり大和と言う国を作り上げてまいります。稲作による国をもつ天孫族、山の生活文化を持つ狩猟民族山幸族、海周辺で暮らす海幸族に稲作が伝わるお話です。
@ 山幸族との出逢い〔天孫降臨〕
むかし、むかし、空〔から〕と言う国がありました。この国には天孫族と言われる人々が稲と言う作物を育て暮らしておりました。この国の首長はアマテラスと呼ばれ、その人望、徳は国の隅々にまで伝わり、国中が仲良く平和な暮らしを営んでおりました
ある日、アマテラスは「筑紫野(現在の九州)の日向かう土地で争いが絶えない」と聞きました。
アマテラスは一族の中から、利発で賢い子を呼んで「争いは腹が減ることが原因だ、この稲の種を与え稲を作り食べる方法を教えてきなさい」とお話をしました。
出発の日、アマテラスは「新しき土地に稲穂がにぎにぎしくたくさん実るでしょう」と願いをかけて「ニニギと名乗りなさい」とニニギの名前をくださりました。
ニニギと仲間は八つの山の峰と八つの山の谷を越えて、祖母の山を越えて、筑紫野の千穂の郷 (現在の高千穂)の二上山に着きましたが、そこは霧が濃く深く人の姿さえもハッキリと見えないほど暗い山深い所でした。一同は山を少し降りた所に何か大きな人影を見つけました。ニニギは供のウズメを呼び「ウズメよ、お前は賢き女である、争わぬように誰なのか確かめてくれぬか」と頼みました。ウズメは踊りの名手でありましたが物事に動じない賢さを持つ姫でした、さっそく山をおり「そなたは何者ですか」と訪ねました。
麓にいたのは、千穂の郷に住む、山幸族の長サルタヒコでした。サルタヒコには数日前から峰を越えて谷を渡るニニギと仲間の話は伝え聞えておりました。今日あたり二上山から降りるだろうと考えて、この場所で待っておりましたとニニキとその仲間を迎えました。
A山幸族の独立
千穂の郷の住人は、山幸族で木の実や猪や鹿など獣を獲り暮らしておりました。やがて、ニニギと仲間は山を開いて稲を育てました。山幸族の人々は「食べ物を獲らないで仕事をする」
ニニギ達の仕事をいぶかりました。サルタヒコは山の木を切ると木の実が取れなくなる、猪や鹿が獲れなくなると山幸族の不平不満を一身に受けて、ニニギ達を支えました。
やがて、秋が来ました、山々は収穫の喜びで沸きあがりました。ニニギ達も沢山の米を収穫する事ができました。山幸族の食べ物は秋過ぎて冬が近づくと食べ尽くしてしまいました。ニニギはサルタヒコを家に招待してお米で作ったおにぎりやお酒を振舞いました。サルタヒコの山幸族にも分け与えました。山幸族は大変に喜び、ニニギが行った稲作の大切さを理解する事ができました。これからは稲を作ることになり、食べ物をとり合う争いは終わりました。
仲の良くなった山幸族の長サルタヒコと天孫族の舞姫ウズメは結婚をしました。そして千穂の郷での稲作に精出す事にしました。〔天孫降臨 記紀神話から〕
Bニニギの川下り
千穂の郷から川を下ると、吾田と呼ばれる郷で海幸族が多く暮らしておりました。海幸族は「海の食べ物を奪い合い争いが絶えない土地である」とある日ニニギは聞きました。そこでアマテラスの言葉を思い出したニニギは、吾田の郷に行く事を決めました。ニニギとその仲間とサルタヒコは筏を沢山用意をして、五つの瀬の川へ漕ぎ出しました。
筏は昼尚暗い峡谷の瀬を大きく曲がりながら、ゆっくりと下りました。そして一番深い谷を通り抜けた所で、一夜を明かしたニニギは「この地は朝なのに、日も射さぬ」と言い、日の影と名付けました。そして最も急な流れの瀬を越えると、川はやがて広くなり、八つの峡谷が集まる所に付きました。その地を八峡と名付けこの地でサルタヒコは筏を降りて、ニニギ達に別れを告げて、千穂の郷に帰りました。八峡の向かいは速日の峰と呼ばれ、ニニギ兄であるニギハヤヒ〔火明命〕が先に到着した峰がある。
筏は広々とした潟に着きました、ここはオオヤマツミの支配地、吾田の津である。ニニギ達は、争いを避ける為に、笠沙の岬〔現在の愛宕山の岬〕を迂回して櫛の津で筏をおりた。〔クシフル伝説 記紀神話から〕
C神吾田津姫〔サクヤ姫〕との出逢い
吾田の津は、貝や魚が豊富に取れ海の食べ物で生きる、海幸族が多く生活しておりました。晴れた凪の日には、海に貝や魚を獲りに出かけました。笠沙の岬〔愛宕山〕は吾田の津に突出した半島で一番貝や魚の取れる場所でしたので、首長のオオヤマツミは笠沙の麓に一族の住む長い住居をつくり住みました。山からは清水が絶えず流れ、深い森は豊な木の実を実らせる、住みよい場所で吾田の長屋と呼ばれていました。
一方、ニニギ達は櫛の津に仮住まいを建てて、周辺の散策しておりました。ある日ニニギは笠沙の岬を訪れました。笠沙の岬には神水と言われる冷泉が山の上に沸き出でています。吾田の津の姫であるサクヤの姫はこの水を汲むのが日課でした。ちょうどその日その時にサクヤ姫は水汲みに来ていました。
深い森の木漏れ日の中をサクヤ姫は長い黒髪を風に乗せて振り返りました。ニニギはそのあまりにも美しい姫に魂を打たれてしまったのです。その出来事は運命的でした、ニニギは縁と言う不思議な絶対に惹かれ姫に声をかけました。「私と結婚してください」、姫は「私の父、オオヤマツミに聞いてください」と、天孫族と海幸族の最初の出逢いになりました。
ニニキが人々を幸せにする稲作の技術を持つ天孫族の首長、アマテラスの孫であり、千穂の郷に豊さと平和をもたらした御子であると言う、事実が吾田まで伝わっておりました。
オオヤマツミは大変に喜び、サクヤ姫と姉のイワナガ姫も一緒に貰ってくれと沢山の貢物を添えて、ニニギに贈りました。ニニギは美しいサクヤ姫だけ嫁にして、イワナガ姫はお返しになりました。オオヤマツミは「イワナガ姫はニニギが長寿になる願いをかけて、嫁にさしあげたのに」と大変怒りました。
ニニギはサクヤ姫との出会った、笠沙の岬に立ち「ここは空の国に真っ直ぐに向かい、朝日が良く射し、夕日良く照るところだ」と心から喜び、この地に笠沙の宮を建て暮らしました。〔出逢い伝説 記紀神話から〕
〔オオヤマツミは海の神〔綿津見大神〕として長浜の海童神社に氏神として祭られております〕
D火中のお産
それから直にサクヤ姫は身籠りました。あまりに早い妊娠にニニギはサクヤ姫を疑い「海幸族の子ではないか」と問うたのでした。サクヤ姫は嘆き悲しみつつも月日は満ちてやがてお産の時が迫ります。サクヤ姫は「天孫族の血を受け継がない子であるならば母も子も焼け死にます」と天地の神に誓約〔ウケイ〕を致します。
そして火に生れる野〔俵野〕に出口の無い産屋を建てさせ、周囲に火をかけその中で三人の御子をお生みになられます。天地の神は火により姫の潔白を証明しました。そして火の中より生まれでた御子として、それぞれを火照命、火須勢理命、火遠理命と呼ばれた。
ホデリは後の海幸彦です。ホオリは後の山幸彦です。ホオリが産湯に使った川の名が伝え残されました。現在大崩山を源流とする、祝子〔ほおり〕川である。〔火のお産 記紀神話から〕
E終章〔まとめ〕
その後ニニギは日向の国を治める大首長になり日向初代と呼ばれる、ホオリは現在の西都市を含む山幸族の首長になりこの日向二代と呼ばれた。又ホデリは現在の宮崎市を中心とする海幸族の首長となるものの山幸彦が海神の娘と結婚するなど海幸族の政変により、熊襲の国に逃れ隼人族の祖神になったとも言われる。ホデリは海幸族との結婚によりは日向の国を統一しその子、ウガヤフキアエズは日南地方を統一し、孫は大和朝廷の初代、神武天皇です。
やがてニニギは吾田の笠沙の宮で命を閉じます。古事記によると「筑紫野の日向の可愛岳山稜にお祭りをした」との記述があります。その場所は祝子川の北に位置する、俵野の宮内庁参考御陵墓と指し示しております。
参照
コノハナサクヤ姫の本名は古事記に木花之佐久夜毘売、神阿多都比売(カムアタツヒメ)あります。理解がしやすいように、サクヤ姫そして神吾田姫(カムアタツヒメ)としました。
大山積の神〔綿津見大神〕又はワダツミ〔海神〕の娘で、火の神又は水の神とされています。オオヤマツミはサクヤ姫の子ホデリが生れた時に、神々に天甜酒(あめのたむざけ)を造り供えて、喜んだとされ酒解神とも呼ばれている。大山積の神は大いなる山の神であり、わた〔綿〕は海の古称であることから、オオヤマツミは海山の神とされます。ニニギが海山を支配する折に海山の神を登場させる、古代神話の巧みな演出である。
又、祝子と書いて、ホオリと呼ぶこの川名の由来も非常に面白い。今回あえて産屋の位置を火生野〔俵野〕にして見ました。
このように古事記は、中国の漢字を日本語読みで使う、万葉仮名と言われる手法が使われているので、漢字そのものの意味は曖昧である。正しくは古事記には呉音が反映されている。
初版 平成一九年九月二十日 五冊
第二版 平成十九年九月二一日 十二冊